( ・ω・) ねぶろぐ

管理人ねぶおが、書評・料理・風物などについて気ままに語る。

ドグラ・マグラ

 

今回はこれまた好事家の中では知らぬ人は居らぬであろう、『ドグラ・マグラ』。

以前ここに書いた黒死館殺人事件と同じく、日本三大奇書の一つとされている。大分前に読んだのだが、内容を思い出すためにもう一度読んでみると相変わらず奇妙奇天烈、「奇書」という意味合いにおいては他二つを凌いでトップと言えよう。

ちなみに今回表紙画像はない。僕の持ってるのは角川版なので、分かる人は分かると思うが、表紙の絵が……ね? ちょっとここには載せ難いかなと……

 

「読むと誰でも一度は頭がおかしくなる」?

あたかも読むと発狂するかのような煽り文句で有名なこの作品、もちろん読んだからって本当におかしくなるというわけではない。(もちろん万人が安全という保証はないが。僕は元々おかしいから平気だっただけかもしれない…)

とはいえ、そうした煽りが付くのも納得かな。この作品は「狂人」「精神病棟」「異常心理の研究」といったものを柱に、それらを取り巻く研究資料、事件の調書、とある家系の歴史を遡った縁起などが、視点や語り手を転々としつつ怒涛に展開されていくものだから、読んでいると頭がおかしくなるような気がするのも道理である。

その上に作中で紹介される「ある狂人の青年が書き上げた小説」が、現在主人公が体験している状況をそのまま描いたかのような内容になっているというメタ的な表現も盛り込まれており、語り手である主人公自身の記憶や精神状態が曖昧なことと相俟って、作中の視点・時系列に甚だしい混乱を引き起こす。

結局正確には何がいつ起きていて、どこからどこまでが本当に起こったことなのかという点は、読み終わった人の間でしばしば議論の的となるようである。しかし個人的に言わせてもらえば、あまり気にしなくていいと思う。あくまでこの作品を読む上での主眼は、繰り広げられる奇怪な世界に幻惑されることにあると僕は考えるからだ。何となく自分の中での解釈を持っていればそれでいいんだよ、うん。(…ってのは投げやりすぎるか?)

 

異色の資料の数々

さて、作中に様々な資料が差し挟まれているということは上でも触れたが、それらがいちいちブッ飛んでいる。『キチガイ地獄外道祭文』『胎児の夢』『脳髄論』などがそれだ。一応原典そのまま、伏せ字なしで表記したが大丈夫だろうか。Google先生に怒られたりしないよね…?

これら資料を交え描き出されている精神異常の研究内容は、一見メチャクチャな理論に見えて実は意外と筋が通っている。『胎児の夢』では人間の細胞が進化の歴史も含めた先祖の記憶を全て受け継いでいるという説が提唱され、『脳髄論』では、脳髄は物を考えるところにあらず、それら一個一個の細胞が持つ意思や記憶を連絡・統括する電話交換局のようなものなのだという論が展開される。

そして精神異常とは、脳髄の統括機能が弱まった時など何かがトリガーになって、細胞が持つ先祖代々の記憶の中から突出した執着や衝動などが突然表に出てきた結果だというのである。どうだろう、突飛ではあるが意外と説得力がないだろうか? 実際現実にも、心臓移植を受けた人がドナーの生前の性格や嗜好を受け継いだ例は報告されているワケだし、獲得形質が後世に遺伝する可能性も近年有力になってきているという。だったら脳髄の機能はともかく、細胞が意思や記憶を持っているというのはあながち馬鹿にできない説だと思うのだが……

で、これらを提唱した正木博士は、こうした仕組みも理解しない自称精神科医たちにぞんざいな処遇を受ける精神病者たちの悲哀を、『キチガイ地獄外道祭文』と称して木魚を叩きつつ唄って回っていたわけである。ハァーア、チャカポコチャカポコ……

いかん、何だか僕も木魚が欲しくなってきた。チャカポコしたくなってきた。

 

狂気と理学の入り混じる世界

とまぁこんな感じで、随所に狂気を感じさせこそするものの、その実意外と理路整然とした説も展開されているドグラ・マグラ。よほど文章を読むのが嫌いな人でなければ本当に発狂することは多分ないと思うので、恐れずに手に取ってみては如何だろうか。

筋道だった考察の元に作品世界を理解するのも良し、ただただその文章世界に惑乱され酔いしれるのも良し、あるいは本当に狂人になってしまうのも一興。楽しみ方は人それぞれである。チャカポコ、チャカポコ、スチャラカ、チャカポコ……

 

コロナビール

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さて、世の中新型コロナウィルスで散々なことになってたこの二ヵ月くらい。僕も結構散々な目に遭ったがまぁそれはそれとして、気になってるものがあった。みんなご存じコロナビールである。

 

僕は普段まったくビールを飲まない。酒が飲める年齢になってから早10年くらい経つというのに、いまだにビールの美味さがまるで分からないからだ。味覚がお子様と言うなかれ、ウイスキーやブランデーなら好んでストレートやロックで飲むし、実に美味いと思っている。それなのにビールだけは本当に不味いとしか感じられず、何度飲んでも身震いしてしまうのだ。(体質によってどうしても苦手な部類の酒がある、という人もいるようだが、自分もコレなのだろうか?)

 

ところが昨今、コロナウィルスで緊急事態な世の中になってふと、「そういやこれコロナビールめっちゃ風評被害じゃね? まぁ飲食店自粛ムードだから、どのみち飲む人なんて限られてるけど…」と思ったのだ。そして気になったので日用品の買い出しついでに酒屋を覗いてみると、むしろポップ付きで『コロナビールを飲んでコロナウィルスに打ち勝とう!(※医学的効果が保証されているわけではありません)』なんて謳い文句で売り出されているのだ。

まぁそりゃそうだわな。むしろそういうノリで逆手に取るしかないわな。

 

そこで、そういえば未だコロナを飲んだことがなかったっけなと半ばネタ的に買って、結局しばらく放っといたのを今更ながら飲むことにした。もちろんライムも(めんどいけどわざわざ)買ってきた。

コロナといえばやはり櫛切りライムが挿してあるのが定番である。この飲み方にどの程度由緒があるのかまでは知らないが、何といっても見た目がシャレオツだ。絶対パリピ連中が好きそうな飲み物である。奴らはビールならコロナ、ショットならテキーラかコカレロ、カクテルならイェーガーボムしか飲まない、と勝手に思っている。(だってパリピと友達になったことなんてねぇもん…)

 

かつてバイト先の先輩はコロナについてこんなことを言っていた。

「何でコロナってライム挿すか知ってるか? こうでもしないとマズくて飲めねぇからだよ」

それが先輩の主観なのか通説なのかよく分からず、当時は話半分に聞いていたものだが、いよいよそれが嘘か真か知る時が来た。瓶の口に挿したライムを押し込み、ライトアップされたクルーザーのデッキの上を想像し、目の前の架空のパリピ友達と瓶を交わしてコロナビールを飲む。

 

……あぁ、しまった。やっぱり普通にマズい。いや何がしまったってさ、僕そもそもビール自体マズいとしか思えないんだった。コロナが他のビールと比べて美味いか不味いかなんて分かるワケないじゃん、アホか!

一応、「あ、ビール苦手だけどコロナなら飲める、美味いわー」みたいな展開もワンチャン期待していたのだが、全然そんなことはなかった。現実は非情である。

ということで、やっぱりビールはおいしくない。でも強いて飲まなければならないとすれば、僕はコロナビールを選ぶ。だってかっこいいじゃない。

 

(余談だが、やっぱりコロナ禍の風評被害のせいで世界的にコロナビールの売り上げは落ちてしまったらしい。合掌!)

 

アブサン チェコ

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アブサンといえば種類は色々あるが、またよりによってというか、紹介するのはこの「アブサン チェコ」。良く言えば『異色のアブサン』、悪く言えば『アブサンの名を騙る偽物』だろうか。

ラベルにはただアブサンとデカく書かれており、他にもグリーンツリーだとかフェアリーだとか銘柄に関係しそうなワードが書かれているが、この酒がそういう名前で呼ばれることはなく、大体「アブサン チェコ」という名前で通っている。

(実際妖精のイラストが描かれているし、裏側のラベルには「アブサン フェアリー」と書いてあるのだから、それでいいじゃんと思うのだが、何故頑なに「アブサン チェコ」と呼称されているのかは謎。どっからチェコなんて文字列が出てきたんだ?)

 

基本、アブサンという種類の酒に共通して言えるのは、水を加えると濁るということ。これは加水することでアブサンの中に溶けていた脂質などの非水溶成分が析出し、それが光を乱反射するから濁って見えるというワケだが、この「アブサン チェコ」はそれがない。水で割ろうと炭酸で割ろうとクリアなまま。

そしてアブサン特有のアニスフレーバーも無いに等しい。よくこの酒のキャッチコピーで「ニガヨモギの風味が支配的」と書いてあるのを見かけるが、まぁ物は言いようだなといった感じで、身も蓋もない言い方をするとありふれたミント風味。

また大方のアブサンが黄緑系の色なのに対し、こいつは怪しいくらい綺麗にライトグリーン。前述の風味も相まって、間違えてマウスウォッシュでも飲んでんじゃないかという錯覚に陥る。

 

こういった有様だから、これをアブサンの中に位置づけていいのかどうか頗る疑問だが、別にアブサンの製法に明確な定義があるわけでもないので、メーカーがアブサンと名乗っている以上アブサンなのだろう。

とはいえ、これだけ一般的なアブサンと方向性が違うのだから、同じ飲み方をするのも何だ。色は(すごい人工的だが)綺麗なグリーン、ミント風味、割り物で濁らないという特徴があるのだから、ライムでも加えてソーダ割りやトニック割りにしてしまうのが一番いいのではないだろうか。

ただし度数が70度もあるので、割ったからといって油断して飲み続けるととんでもない目に遭う、いいね?

 

ちなみにこれは余談なのだが…

昔内輪で20人くらいを集めてパーティースペースで催しをやることになった。僕はいくらか自前で酒を持っていこうと申し出て、それらの中にこの「アブサン チェコ」も含めていた。正直買ったはいいが持て余し気味で、できるだけパーティーで消化して欲しかったのだ。

前日、僕はこのパーティーの幹事である友人に直接参加費を渡しに行き、ついでに長い時間話し込んだのだが、その友人は参加者の面々が企画の舵取りを頼んでくる割にどこか他人事で、会場のセッティングなどに非協力的であることを嘆いていた。(僕などは、自前で酒を進呈しているだけまだ貢献できていたようなのだが)

そして当日、その友人は僕が持っていった「アブサン チェコ」を炭酸で割り、情け容赦なくどんどんみんなに振舞っていた。前述のようにこれは元の度数がえらく高い。終盤にはカウンター席周りの何人かが完全にグロッキー状態になっていた。この瓶がキレイに空になってくれたことは僕としては願ったり叶ったりだったのだが、笑顔でアブサンソーダをガンガン飲ませていた友人を思い出すと、相当鬱憤が溜まっていたのだなぁ……と、彼の苦労が偲ばれるのだった。

 

 

小泉八雲集

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( ・ω・) 今回はこれ、小泉八雲集である。

 

耳なし芳一』『むじな』といったメジャーな話なら、日本人で知らない人はいないであろう。しかし小泉八雲、もといラフカディオ・ハーンの書き記した話はそれら以外にも数知れない。彼が日本の知人、友人から聞き集めて記した伝説や逸話の数々がこの一冊に詰まっている。

 

ジョジョのあの人物は弘法大師がモデルなのか?

どうも一般に、上に挙げたような『怪談』のイメージが強い小泉八雲。しかしそれ以外にも、いわゆる奇譚に分類されるような逸話なども多く書き記している。

中でも興味深いのが、真言宗の友人から聞いたとされる、弘法大師こと空海に関する幾つものエピソードだ。(八雲本人の著作からは少々軸がズレてしまうが)

 

「弘法も筆の誤り」という、誰もが知ることわざの元となった実在の人物にして、卓越した書家であった弘法大師。何と逸話によれば、筆の先から墨汁の滴を飛ばして文字を書いたり、高所の額に筆を投げつけて先程書き忘れた点を打ち直したり(しかも筆は手元に戻ってくる)、挙句には川面や空中にまで字を書いたというのだ。

 

この話を聞いて、何か既視感を覚える人もいるのではないだろうか。そう、「ジョジョの奇妙な冒険」第4部に登場する漫画家、岸辺露伴である。彼はペン先からインクを飛ばして黒ベタを塗るという離れ業を披露しているし、スタンド能力が成長するにつれて空中に指で瞬時にキャラクターを描くという場面も見せた。勝手な推測だが、もしや岸辺露伴のモデルの一人は弘法大師だったのではないだろうか?

(ちなみに、作者の荒木氏が既にどこかのインタビューでそう語っていたりしないだろうかと調べてみたが、残念ながらそういったソースは見当たらなかった…)

 

余談だが更なる逸話として、弘法大師の評判を良く思わなかった者がその字を声高に貶すと、晩の夢の中に貶した文字が現れて擬人化し、その人物をボコボコに痛めつけたらしい。(しかも同様の話が少なくとも2件ある)

実は弘法大師こそスタンド使いでは――いや、もうこの話はやめておこう……

 

霊的な「古き良き日本」への崇敬

この著作全体を見てとにかく驚かされるのは、ハーンが異郷の人でありながら日本の文化習俗というものをいかに熱心に学び、そして細やかに考察していたかという点である。それは、各種の伝説や逸話をあらゆるところから蒐集していたことに関してはもちろん、日本人の間に古くから培われてきた精神性の真髄を、ある意味日本人以上に深く理解していたところからも窺える。

これについては、本書の中にある『日本人の微笑』という項を是非に読んでいただきたい。彼が愛した古い時代の日本の良さと、そして文明の西洋化に伴い急速に失われていったそれらへの嘆きは、日本人であるならば一度は目を通してみるべきだ。そして個人的な感懐ではあるが、文明化がさらに進んだ現代において、今日の我々がどうなってしまったかということについても、猶のことよく考えてもらいたい。

 

また作中には、八雲の日本文化への探求心がいかに深かったかを見て取れるエピソードがある。ちょうどお盆の時期の焼津に滞在中だった彼は、燈籠流しを是非見てみたいと思っていたのだが、始まる時間をてっきり深夜と当て込んで寝過ごしてしまい、起きた時には燈籠がすでに沖へと流されていった後だった。

すると八雲は、燈籠を間近で観察したいという執念のあまり、一人で海へと飛び込んで泳ぎ出し、燈籠の一団に追いついてこれを存分に眺めたというのである。いかに興味深いとはいえ、死者の祭日の夜の海に一人飛び込んで沖まで泳ぐというのは、まず並大抵の根性では出来ない話である。(もっとも目的を果たした後、八雲は夜の海の底から「冷たい戦慄」を感じたという。まぁ、そりゃそうである)

とはいえその熱意があったからこそ、これだけの作品群を今日の世に遺すことができたのもまた事実と言えよう。

 

我々も知らぬ日本の姿

本書に収録されている怪異譚の中には、今日の日本人が知る妖怪像と微妙に違うものも幾つかある。例えば知っている人は知っているだろうが、我々の言うところの「のっぺらぼう」が登場する作品は原題が『むじな』であり、実は作中にのっぺらぼうという単語は全く出てこない。また、『ろくろ首』の話に登場するのは、いわゆる「抜け首」だとか「飛頭蛮」に属するものであり、今日の人々が想像するであろう首が伸びる妖怪とは違うものとなっている。(元来、日本のろくろ首には首が抜けるものと伸びるもの、二つのパターンがあったらしいが)

 

そうしたものも含め、現代の我々が知らない、あるいは知ろうともして来なかったかつての日本の伝説や文化が八雲の作品の中には溢れている。それらは時に過度に讃美的であり、夢想的でもあるのは否めない。しかし物質的な豊かさと引き換えに、我々が失くしてきた古来の日本の精神的な豊かさが、この作品集の中には確かにある。現代の息が詰まるような競争に疲れ果てた人にこそ、是非読んでもらいたい一冊である。

 

 

黒死館殺人事件

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( ・ω・) 書評第一弾はやっぱりこれ。

 

いわゆる「三大奇書」の一角であり、日本探偵小説史に残るスーパークレイジーモンスター、黒死館殺人事件である。(初回から取り上げる内容じゃない気もするが…)

 

博覧強記にして超絶学識を誇る主人公、法水麟太郎(のりみずりんたろう)が、降矢木家――通称「黒死館」――で起きた奇怪極まる殺人事件に挑む。

 

 

ある意味一番の難敵は主人公

ところが、まず最初にはっきり言っておくと、一番事件をややこしくしているのは他ならぬこの男、法水自身なのである。(オイ)

法水は古今東西あらゆる分野について信じがたいほどの知識を有しているのだが、その知識故に目に留まるもの片っ端から事件のトリックと結び付けて考え、シンプルに考えれば済む謎を勝手にどんどん膨らませていくという悪癖を持っているのだ。とっても迷惑…

 

そのため友人であり仕事仲間である支倉検事や熊城捜査局長も、法水に助力を要請する一方で、その推理劇には称賛3割、呆れ7割(いや、ひょっとしたら2対8くらいかもしれない…)ほどの態度で接している。

おまけに鎌をかけて情報を得るため、即興で突拍子もないトリック(一応筋は通らないこともない)を指摘して無実の人物を動揺させ、後から「ハハ、どうして彼が犯人なもんか」と笑い飛ばすことなど朝飯前である。やられる方はたまったもんじゃない。

 

こんな調子だから、支倉検事を始めとする他の面々に痛烈に皮肉られたり、あるいは非難されたりするのも日常茶飯事である。それでもめげずに――懲りずに、とも言うが――妄想的推理を展開し続けるメンタルの強さ、そして重要なところではちゃんと真実に迫って一同を驚嘆させる推理力、それが法水の持ち味でもあるのだ。

 

 

活字嫌いなら発狂もの? 難解な語の集中砲火

この作品の最大の魅力にして、同時に読む者を選ぶ最大の壁が、ルビを多用した衒学的用語の数々である。ちょっとパラパラめくった程度でも、パッと見ただけでは全く意味不明とも言える単語が大量に目に飛び込んでくる。黒魔術にまつわるものから、建築、医学、犯罪心理学に及ぶものまで種々雑多。魔法博士デイ、ジッターの宇宙構造論、イエンドラシック反射、鐘鳴器(カリルロン)の倍音演奏… とにかく全編通して、こんな単語が機関砲のごとく弾幕を張っているのだ。

 

ここに法水お得意の超理論が加わると、いよいよ何を言ってるのか分からなくなる。以下にほんの一部の会話を抜粋する。

 

「(中略)つまり、その驚くべき撞着たるやが、毒殺者の誇りなんだ。まさに彼等にとれば、ロンバルジア巫女(ストリゲス)の出現以来、永生不滅の崇拝物(トーテム)なのさ」

 

「そうなんだ。事に依ると、自分がナポレオンになるような幻視(アウロラ)を見ているかも知れないが、先刻から僕は、一つの心像的標本を持っているのだ。君はこの事件に、ジーグフリードと頸椎――の関係があるとは思わないかね」

 

……どうだろうかこの、誰もが「お前は何を言っているんだ」と突っ込みたくなるような謎の論理展開。実際作中でもみんなそんな反応をしているし、上に紹介したものはほんの氷山の一角と言っていい。

 

しかし実に驚くべきは、膨大な知識を元にこのような着想に至れる法水、そしてそれを描く作者小栗虫太郎の底知れぬ教養である。作中に飛び交う知識や史実の中には不正確なもの、或いは捏造と思しきものもあったりはするが、それを差し引いても常軌を逸した情報量であり、知識の入手手段が実質書籍くらいしかない時代においてこれだけの内容を書き切るのだから、もはや驚愕と感嘆の言葉しか出てこない。

実際、作者自身もこの作品を書いた当時のことを「あの時自分には悪魔が憑いていた」と振り返っていたらしいが、さもありなんという話である。

 

 

内容は上級者向け、しかし面白い!

そんなこんなで、読書嫌いの人ならページを開いた途端に蕁麻疹が出るか卒倒するか、といった調子の本書ではあるが、そこについてはあまり心配は要らないだろう。この作品を手に取っている時点でその人はある程度以上の本好き、あるいは好事家と見做していいからだ。(前者はともかく後者はどうなんだ…)

 

中世様式の豪壮な、しかし陰鬱な邸の中で繰り広げられる殺人事件と、魔術も科学も心霊学も何もかも入り乱れた衒学と超推理の奔流! その空気感に少しでも惹かれたなら、是非とも読むべき一冊である。そこにはきっと、巷に溢れているどの本も味わわせてはくれない、怪奇極まる幻惑的な読書体験が待っているはずだ。